飼い主のいない猫の問題に関わるようになってから、「命の重さ、っていったい何だろう」と、ずっと考え、自分の心の動きを観察し、あるいは想像してきました。
率直に書きますと、私にとっての命の重さは、みんな平等なのではなく、以下のような感じです。
最も大切なのは、息子の命です。
息子とほぼ同じくらい大切なのは、女房の命です。
つぎに、実家の両親や女房の母親の命です。
つぎに、妹や妹の子(甥っ子)の命です。
つぎに、長い付き合いの親友の命です。
つぎに、家族同然のオカメインコの命です。
つぎに、友人たち、親戚の人たち、知り合いの人たちの命です。
そこから先は、お付き合いの深さによります。
遠い国では、今日も、私の会ったことのない人が、悲惨な事件に巻き込まれて命を落としています。
けれども、私は悲しくない。
一方、ウチのオカメインコが死んだら、しばらく立ち直れないでしょう。
それどころか、一生、心のどこかに穴が空いた状態になるでしょう。
「遠い国の人間の悲惨な死」<「我が家のオカメインコ」
1羽のオカメインコよりも、ひとりの人間の死の方が重大なはずです。
なのに、この私の心の動きは、いったいどういうことなのでしょうか。
あくまで私の場合ですが・・・。
私の「仲間」の命は重い。私の「仲間でない」命は重くない。
「命の重さの順番」=「私の思い入れの順番」
では、「私の思い入れ」って何でしょうか。
私の息子は、私という自我の中で大きな位置を占めています。
つまり、私という存在の一部なのです。
女房についても、同じことが言えます。
オカメインコも、同じです。
たかが1羽の鳥ですが、私にとっては、とても大切な仲間なのです。
「私の思い入れ」とは、私の一部であるかどうかということ。
私の心に占める割合が小さくなるにしたがって、私の中での命の大切さも薄れます。
すべての命を平等に大切に思う、ということは、私の場合にはありません。
したくても、できないのです。
毛虫の命は大切に思えないし、蚊が部屋にいたらば問答無用で叩きます。
哺乳類の場合、ネズミは本当に苦手です。というか嫌い。
私にとって、命の尊さとは、極めて、主観的な価値なのです。
息子(小学5年生)の担任の先生が、子ども達に言ったそうです。
この先生、上場企業でかなり勤めてから教師に転職したという変わり種で、私は大好きなのです。
「お前ら、自分の命を大切にしろよ。それから、友達の命もだ。命がなんで大切なのか分かるか。お前らは、親御さんや家族に大切にされて、こうやって今、学校に来ている。一所懸命にお前たちを思ってくれる人たちの思い、これだ。これが命の大切さだ。」
いや~、いい先生に見てもらって、ウチのチビも安心です。
ところが・・・。
地球(大自然と言い換えてもいいです)という視点に立つと、命の価値に全く差はありません。
細菌やウィルスでさえ、役割をもって、この地球上に存在しています。
近年、ウィルスが生物の進化に大きく関わっている可能性が指摘されているそうです。
すごいですね、ウィルス。
南方熊楠は「世界に不要のものなし」と言いました。
私も、本当にそのとおりだと思います。
大自然に、「いい命」と「よくない命」があるはずがありません。
みなさんはどのように思われますでしょうか。
話はまだ続きます。
Kommentare